私たち日本人の食卓になじみの深い海産物
創業以来、常にその海産物と共に歩み
自然の恵みを当社独自の製法と伝統の味で
皆様にお届けしてきました。
横田屋本店は、これからも時代を超えて
伝統の味を真心を込めて皆様にお届けいたします。

会社名称
株式会社 横田屋本店
コーポレイトサイト
https://www.yokotayahonten.info
創業
1706年(江戸・宝永三年)
会社設立
1931年6月
代表者
代表取締役 社長 猪狩 儀一
連絡先
TEL : 0226-22-0175
FAX : 0226-24-1276
事業内容
・海苔、海産物、食品製造・卸売及び小売
・水産物加工販売
・不動産賃貸業
・タバコ販売業
・輸入業
加盟団体他
全国海苔問屋協同組合
全国加工海苔協同組合
三陸海苔商業協同組合
食品のり公正取引協議会
全漁連三陸わかめ買受人会
宮城県物産振興協会
気仙沼市物産振興協会
事業所
●本社(本店)
〒988-0084
宮城県気仙沼市八日町1-4-8
TEL:0226-22-0175
FAX:0226-24-1276

●海の市店
〒988-0037
宮城県気仙沼市魚市場前7-13
TEL:0226-22-2672

●階上工場
〒988-0234
宮城県気仙沼市字長磯原ノ沢30-1
TEL:0226-27-4878
FAX:0226-27-4877
製造所固有記号+H

●赤岩工場
〒988-0103
宮城県気仙沼市赤岩港168-17
TEL:0226-48-5466
FAX:0226-48-5388
製造所固有記号+A

●盛岡支店(業務用食品卸)
〒020-0851
岩手県盛岡市向中野字東道明30-1
TEL:019-635-6171
FAX:019-635-6170

※階上工場外観


※海の市内観

アクセス方法(本店)
●JR利用
東京より東北新幹線で一関まで2時間40分
一関より大船渡線で快速列車にて60分

●車利用
東北自動車道 盛岡から一関まで1時間
仙台から一関まで1時間
一関より国道284号線で1時間
猊鼻渓(げいびけい)より車で50分
志津川より国道45号線で1時間
海苔の神様、猪狩新兵衛
~JR発行「旅もよう-大船渡線気仙沼駅」より転載〜


気仙沼の内湾に突き出た神明崎の五十鈴神社境内に、猪狩新兵衛を祀る猪狩神社と頌徳碑が建っている。

新兵衛は三陸で初めて浅草海苔の栽培に成功し、仙台海苔の開祖となった人である。
七転びの半生
新兵衛は文化7年(1810)東磐井郡大原村に生まれ、幼名を儀平といった。

18歳のとき気仙沼一の豪商といわれた廻船業者、横田屋猪狩新兵衛(3代目)の養子となったが、性格は豪放磊落で事業欲の盛んな彼は、見込まれて4代目の新兵衛を名のった。

事業は順調に進だ。天保14年(1843)34歳の新兵衛に初めて悲運が訪れた。三陸の物産を満載して江戸へ向かった2艘の持ち船が房総沖で台風に遭い、1艘は沈没、もう1艘も大破し積荷もあらかた失ってしまったのである。

しかし新兵衛はくじけなかった。それどころか破損した船と積荷を処分すると、その金を持って吉原に繰り出し、豪快な遊びをくり広げた。それを見て新兵衛にすっかりほれこんだのが日本橋で海苔商を営む桔梗屋五郎左衛門で、新兵衛に「資金も人も面倒を見ますから、海苔の栽培をやってみませんか」ともちかけた。しかし新兵衛の頭には廻船業を立て直すことしかなかった。


気仙沼に戻った新兵衛は残りの船を売って船を新造すると、また航海に乗り出したが、今度もうまくいかず、船はもちろん全財産を失ってしまった。
それでも新兵衛は屈せず鉱山業に乗り出し、また胡粉(顔料)製造を手掛けたりしたが、またもや失敗し、一家は三度の食事にも事欠くようになった。
海苔と塩
新兵衛はどん底の暮らしの中にあっても、新たな事業を模索していたが、ふとかつての桔梗屋の話が頭に浮かんだ。

新兵衛は早速江戸の桔梗屋を訪ね援助を頼むと、その足で大森の海苔場を訪ねた。当時海苔の製法は門外不出で他国への持ち出しは禁止されていた。しかし必死の新兵衛は8人もの技術者を連れ出すことに成功した。彼らは家族を捨て名を偽り、ひっそりと気仙沼で暮らした。

新兵衛は毎年失敗を重ねながら、4年目の安政4年(1857)ついにひびに海苔を付着させることに成功した。販売は桔梗屋が全面的に請け負い、新兵衛は48歳でようやく悲運の人生から抜け出すことができた。新兵衛の成功を見て後を追う者が相次ぎ、海苔養殖は気仙沼の新しい事業として定着した。

しかし新兵衛は仙台藩の海苔場管理役人から膨大な海苔場使用料を要求されたのに嫌気がさしたのか、部下たちに折角の海苔場をそっくり与え、新たに下総行徳から製塩技術者を招いて、内の脇で総州流製塩業を始めた。
彼の開いた塩田は3ha余、年間3,000俵を生産し、明治40年国の専売事業に移管されるまで続けられた。

気仙沼の人々は、海苔と塩の事業場の開発によりたくさんの人に仕事を与えてくれた新兵衛に感謝し明治10年、神明崎に祠を建て、彼を生きながら神として祀った。 
しかし新兵衛の命脈は尽きかかっていた。彼はその翌月人々に惜しまれながら68歳でこの世を去った。新兵衛の墓は海岸山観音寺にある。